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岡崎京子ファンサイト「BIG BOREDOM in WWW」のイケダのブログ。

message for OKAZAKI KYOKO

投稿雑誌「ポンプ」時代の仲間らが中心となって、岡崎京子氏へのメッセージを募集し届ける、というのの報告の上がっていた「デジタルメディア研究所」のドメインが停止しているようです。とりあえず、Googleに残っていたキャッシュをアップします。2002年の夏だったんですね。


●報告(橘川幸夫より)

2002年9月8日(日)に、みなさんの岡崎京子ちゃんへの思いを冊子にしたものを京子ちゃんに届けてきました。下北沢は八幡さまのお祭りだったので、岡崎家で赤飯炊いていたので、ごちそうになりました。

車椅子の京子ちゃんは痛々しかったですが、肌つやはピンクに染まっていてものすごく元気そうでした。まだ会話は出来ませんが、お父さんのサポートで、小冊子を読んでいました。ちょっと、印刷した文字が小さかったため疲れそうだったので、あらためて後日、活字を大きくしたものを作って届けるつもりです。

その他、直接、僕のところに送ってくれた書籍やCDは、開封せずにそのままご両親にお渡ししてきました。ありがとうございました。

京子ちゃんは懸命に頑張って生きています。読者や出版社のみなさんは、一刻も早く表現者としての彼女の復帰を願っていると思いますが、彼女は彼女のペースで頑張ると思うので、どうか暖かい目で、ゆっくりと彼女の回復を祈って欲しいと思います。

死の淵の一番深いところを何度もくぐり抜けてきた京子ちゃんです。今、彼女と同じ空気を吸っていることだけでも、僕は、嬉しい。また、機会があれば、「愛の岡崎京子便」を出そうと思いますので、よろしくお願いします。

みなさん、本当にありがとうございました。

●報告(鈴木琢より)

皆さんのおかげで、ほんとうに良いものが出来上がりました。
我々を信頼してくれて、心のこもったメッセージを送っていただいた皆様、ありがとうございました。

いただいたメッセージは、だんだんと、でも確実に京子ちゃんの心の中に沁み込んでいくと思っています。(彼女がメッセージを読む目は本当に真剣そのものでした)

橘川さんも書いていますが、いま一番復帰できなくてつらい思いをしているのは彼女だと思ってます。ゆっくりと、徐々に、あせらずに、みんなで見守っていきたい、と思っています。

それと最後に、この企画をあっという間に実現してくれた橘川さん、サイトの管理や冊子制作をしていただいた橘川(友)さん、ありがとうございました。

ではまたそのうち、第2弾の企画で!(その時は、メッセージをいただいた皆さんにはご連絡をします!)

2002.9.9 愛の岡崎京子便 鈴木琢、橘川幸夫



発起人からみなさんへ(今回のお願いの趣旨、京子ちゃんの近況)

●みなさんへ(発起人:鈴木琢より)

京子ちゃんとは、お互い高校生のころからのもう20年近い付き合いで、同い年だったり、住んでいるところが比較的近かったこととかから、双方の親を含め、家族ぐるみ(?)でのお付き合いをさせていただいていて、それぞれの結婚式にお互い友人代表の一人としてスピーチしたりしてました。

そんなことで、あの事故がおこってから、(本当にたまに、なんですが)お見舞いに行ったりしてましたので、今回の応援メッセージ作成に際し、彼女の近況を以下簡単にお話させていただきます。

今、彼女は実家で過ごしながら、リハビリをしています。
まだ立って歩くことはできませんが、車椅子に乗って室内を(家族に押してもらって)移動してます。
言葉も、ゆっくりと少しずつであれば話せます。
こちらの話していることは全部判っていて、あの「京子苦笑い」とかも復活してます。
まだ手や指の動きに関してはリハビリ中で、自分で文字を書いたり、メールを打ったり、絵を描いたりすることはできてません。
でも、もちろん手紙やもらったメールを読むことはできて、「一生懸命リハビリをして、自分の手でいつか必ず返信を書くようになる!」と言っています。

なので、彼女のリハビリの励みにもなるように、是非みなさんのメッセージという強くて大きくて暖かい力をいただきたい、と思っています。

いただいたメッセージは、橘川さんと私で責任を持って京子ちゃんに渡します。もちろん、そのときの彼女からのメッセージも、みなさんにシェアさせていただきます

毎日を一所懸命に闘っている彼女とご家族に、あなたのメッセージをお願いします。

●みなさんへ(発起人:橘川幸夫より)

マンガ家の岡崎京子は、1996年5月に突然の交通事故に逢い、作品を発表することも出来ず、療養生活に入りました。

京子は中学生の頃、僕たちがやっていたロッキングオンを読んでくれて、僕と最初に会ったのは、たぶん高校1年生の頃だったと思う。ドナルドダック顔のかわいい子でした。彼女は、授業中に描いたと思われるノートのきれぱしや、深夜、猛烈な勢いで描いたと思われる大量のイラストを、僕がはじめた「ポンプ」という投稿雑誌に送ってくれました。僕らは京子の繊細でかわいいイラストが大好きで、そのイラストのままの京子自身のファンにもなりました。下北沢の床屋の娘で、東京っ子のシャイで臆病なくせに大胆で、寂しがりやのくせに一人が好きという性質も、僕はシンパシーを感じました。たぶん(忘れたけど)京子のファンクラブを作ろうと言ったのは僕だし、第一号会員も僕だった。

彼女が大学生の頃(1979年頃かな)まだパソコンもなければパソコン通信もなかった頃に、僕は、「駒沢通信」というシステムを作りました。これは10人一組で、ファイリング型のノートを1人1週間ずつ持って、かき込みをし、次の人に郵送するというものです。自分の書きたいことを書いて、他の人の書いたものを読んだり、レスポンス出来たりするものです。要するに「メーリングリスト」みたいなものです。これには、10組100人ぐらいの人が参加してくれたのだけど、京子もメンバーでした。

僕らはみんな無名で、気持ちだけ誰よりもピュアでギラギラしていた時代でした。京子はそこからスタートし、やがて、時代を象徴する作品を次々と発表しました。僕らは、京子の活躍する姿を、ハラハラ・ドキドキしながら凝視めてきました。みんな、それぞれの場で時代と向き合っていたのだと思う。そんな彼女が突然、交通事故に会い、倒れました。

いろんな人から京子の容態を聞かれたりするのですが、ポンプの頃からの仲間で、京子の友人である鈴木琢によると順調に回復しているようです。琢は、やはり高校生の頃からポンプにかかわってきて、大学の頃、町田町蔵たちとバンドやってたりしていて、時代感覚は、京子とぴったりでした。

琢と話をして、京子の知り合い、京子のファンで、京子に応援メッセージを送りたい人の寄せ書きを集めて、京子にプレゼントしよう、という計画をたてました。寂しがりやの京子には、友だちからの手紙が何よりも元気の素になると思います。

なお、書込まれたテキストは、編集の上、小冊子にして彼女に直接、届けることにします。いかにも橘川メディア的な発想なので、京子も喜ぶでしょう(笑)


3月30日、復活してるのを確認しました。